古代東海道散策 海老名市〜綾瀬市 その2

前回、古東海道の言い伝えのある綾瀬市小園を東西に走る古道を古東海道と推定して東に延長して歩いてみたが、小さな谷地地形をいくつも越える必要があり、起伏が激しく直線的な道をつけられたとは思えないことなどから、遺構でも出てこない限り古東海道である可能性は薄いと思われる。
そこで今回は、海老名から大山街道(旧国道246号)で北上し、古東海道伝承のある綾瀬市大塚本町交差点から直線で東に延び、厚木基地をかすめて大和深見神社に至る古道を散策してみることとした。

今回も出発は海老名駅となる、相模国分寺の脇を通る旧道に沿って東に向かう。

県道40号との合流地点に逆川史跡の碑がある、逆川は相模国分寺が建立された奈良時代、碑の近くを流れる目久尻川をせき止め運河を掘り国分寺、国分尼寺付近を通して海老名の耕地の灌漑を行った。運河は平安時代中期まで利用され船着き場が国分寺近くに設けられたとのこと。奈良時代の土木作業としてはかなり大規模なもので国分寺の存在などからこの地域が奈良時代には相模の政治・経済上重要な地域であったことを物語る遺構だと思われる。作られた時期ははっきりしないが、相模国分寺の建立(741〜800年頃)と同時代と考えて良いだろう。このような事実からこの地域の近くに相模国府、古代東海道駅(夷参)が奈良時代にはあったと考えることに矛盾はないと思う。その後、781年、802年の富士山の噴火、878年の相模・武蔵地震で壊滅的な被害を受け、さらに相模川下流の沖積平野の陸地化と開拓が進み、延喜式(905年)頃にはすでに国府は、大住郡(平塚市)に移転、相模川以西の古東海道もより海岸線に近い位置を通るようになったものと思われる。

さて、史跡碑から県道40号をさらに東に向かうと、望地の交差点に出る。望地では、奈良〜平安期の道路遺構が発見されている。路面幅5〜6m、硬化面があり須恵器、土師器、瓦、等が出土している。写真左方向旧国道246号、大山街道方向に進む。

大山街道(旧国道246号)は望地交差点から境川の県境までほぼ一直線に相模台地の上を通っていて、確かに古代官道の特徴を備えている。しかもこの地域は相模台地の南端にあたり台地を水源とする小河川が南北にいくつも流れ、台地を削る谷地形、谷地を作っているのだが、この道は見事なくらい谷地形をさけて切られており起伏の少ない道となっている。

現在も交通量が多い上に歩道が無く、散策には楽しい道ではない。

なだらかな坂を登りきったあたりに、綾瀬市の案内板があり右折する小道が綾瀬市小園(旧小園村)に続く道で、江戸末期、渡辺崋山が歩いた道とのこと、この道も古東海道という伝承があるらしいが、南北に走るこの道は国分寺を通らずに座間方面に抜けてしまうし、わざわざ起伏の激しい道を官道とすることはなかったと思われるので、どうだろうか?

旧246号はやがて大塚本町交差点という大きな交差点に出る。ここから東に真っ直ぐ延びる道は明治12年の測量図にある道で現在は厚木基地で分断されているが、東に進むとそのままほぼ直線状に境川(武蔵、相模国境)河岸にある地域唯一の式内社、深見神社へと繋がる。西に進むと国分尼寺北方遺跡(奈良平安期の住居、道路遺跡)を通って、座間市、新田宿の奈良古道の相模川渡河点(中依知)に繋がる。

大塚交差点から東に向かう小道に入る。

道幅は少々狭いが、直線で東に向かう。かつてこの道は松並木であったらしいが、厚木航空隊設置のために伐採されて今はない。ひたすら直線の道を東に進むが周囲は宅地化が進み古道の面影はない。やがて、東名高速と厚木基地で道は遮断されてしまう。


近くの桜森神社を参拝し、相鉄線相模大塚駅に出て今回の散策は終了。今回の古代東海道推定路は、明治12年の測量図にもはっきり掲載されており、奈良古道の相模川渡河点(座間市新田)と式内社・深見神社をほぼ直線で結び、なおかつ奈良時代の遺跡も周囲に点在する。国分尼寺北方遺跡では、南北に走る6mの道(奥州古道)の他に東西に走る道も発見されている。奈良時代初め夷参駅がこの道の近く座間市入谷にあったとすると、東海道の次の駅が店屋(まちや、町田市町谷)だと直線で結べる道がない、武蔵国府(東京都府中市)には奥州古道で北上した方が近い。そうすると奈良時代の初めおよびそれ以前は、夷参駅の次の駅は横浜市瀬谷(せや)付近で、この道を使い夷参駅→深見神社を経由して→瀬谷(せや、店屋・みせや?)→中原街道→橘樹郡衛(小高)という経路を通ったのではないだろうか?時代が200年ほど下り延喜式(905年)頃までには、相模川の平安北路・渡河点は南下し河原口となる。渡河点南下に伴い、駅も南下して浜田駅(海老名市浜田)に移転、現在の旧国道246号にあたる道を整備し浜田駅→店屋駅(町田市町谷)→都筑郡衛→小高駅(橘樹郡衛)と国道246号とほぼ同じ経路をたどった、とするとだいぶすっきりする。店屋駅から鎌倉街道上の道沿いに北上し、武蔵府中国府にいたる道も盛んに使われるようになっていただろう。

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