鎌倉古道散策、いざ!鎌倉その一、宗川寺〜東泉寺

鎌倉古道散策  宗川寺(横浜市瀬谷区) 〜 東泉寺(横浜市泉区)
いままで鎌倉街道周辺をうろうろしてきたが、いよいよ鎌倉めざして道を本格的に攻め上ることとしよう。今回は、鎌倉街道上の道、中原街道交差点(宗川寺)から横浜市泉区の東泉寺までを歩いてみる。この区間は、比較的かつての姿を残していると思われる場所。鎌倉古道の周辺には相模台地の村の鎮守が点々と残る。

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出発は前回の終着点、宗川寺。中原街道との交差点、写真左の奥に続く細い道が前回歩いてきた鎌倉古道。

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交差点を渡ると同じような幅の道がしばらく続く。

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道はやがて環状4号線(県道18号)との交差点、下瀬谷橋交差点、全通院のある場所に出る。ここで鎌倉古道は3つに分岐する。環状4号に沿って鎌倉に向かう「たつみち」と呼ばれる道、相沢川沿いに北上して東名高速手前で合流する脇道、そして相沢川沿いに南下する本道に分かれる。本道と思われる相沢川沿いを南下してみよう。

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全通院の坂入口には、庚申塔と大きな堅牢地神塔がある。地神塔は鎌倉古道に沿った相模地域と町田市周辺ではたくさん見ることができる。が、これはこの地域に偏在して存在する物で、東京都都区部には存在せず、他県ではあまり見かけない。その理由はこの道の先にあるのだが詳しくは次回その場所でご説明しよう。

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相沢川沿いの道は舗装もなくなり、快適な散歩道となる。川は境川と合流する。

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神奈川中央交通の飯田車庫を過ぎる辺りから、大きな農家が道沿いに並び古道の雰囲気を醸し出すようになる。

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やがて道祖神が祭られたY字路に出るので、一旦道を離れ脇道を入ると、柳明神社に出る。

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縁起によれば、この神社は廃寺となった鎌倉郡観音24番札所大石寺の跡に神明社を遷してきたもの。しかしその後不幸が村内に続いたため、再び観音堂を作りご本尊をここにお祭りしたとのこと。つまり神社の隣に観音堂がある。神社は昭和50年に柳明神社(やなみょうじんじゃ)と改名している。これは、明治に行われた廃仏毀釈運動により、江戸時代信仰の厚かった観音札所のお寺までも廃寺としてしまった。が、地元の信者達により、後日ひっそりと観音堂だけを建立してご本尊をお迎えしなおしたということだ。明治の廃仏毀釈はこんな片田舎にも吹き荒れたのだろうことがわかる。

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神社裏の消防団詰め所にあった、暗号表?半鐘をならす回数で知らせていたのかな??

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柳明神社裏手の道、角に置かれた堅牢地神塔、件道標。南大山道、北八王子と読める。江戸時代、鎌倉古道の町田市地域から南の地域周辺は盛んに地神講が行われたらしく道標は庚申塔よりも地神塔が多い。再び鎌倉古道にもどり歩を進めると、柳明地域の歴史博物館、羽太郷土資料館があり、ここにこの地域の江戸時代の案内図看板がたっている。

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道は東海道新幹線と交差するので、陸橋で新幹線の上を通る。25000V電線はやっぱ危険だろうな。500系新幹線200現時で通過中!かな?

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新幹線陸橋を越えるとすぐに本興寺に出る。鎌倉大町にあった日蓮宗の寺を江戸時代にこの地に移したらしい。敷地は広く仁王門や本堂の彫り物など手入れの行き届いた寺だ。この本興時から飯田神社にかけては比較的平坦な地形が続き、新田義貞の鎌倉攻め以降6回に渡る合戦が行われた。それを供養する供養の板碑がかつては街道沿いに存在したようだが、下飯田の東泉寺やこの寺に移されたという。

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本興寺本堂の彫り物

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樹上のニャンジャ、本興寺を出ると県営いちょう団地に沿って進む、団地が終わる辺りの公園で道は新道と合流する。その先に飯田神社がある。

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飯田神社はかつては鯖神社と呼ばれていた。境川沿い和泉川沿いにのみ存在する左馬神社の系統である。梵鐘があり神楽殿、本殿との配置も他の境川周辺の左馬神社と同様。左馬頭、源義朝を祭っている。この飯田神社は延応元年(1239年)創建と伝わっているが鎌倉幕府の御家人、飯田五郎家義がお祀りしたとも言われている。現在の鳥居は新しい物で位置が変わっているようだ。他の左馬神社同様、鳥居は街道に向かってあって、本殿参道は90度交差していたはずで実際その位置に石段と鳥居の礎石らしきものがある。

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飯田五郎家義は渋谷重国の5男で、頼朝の重鎮。渋谷重国は平治の乱で源義朝に加勢した近江源氏本家、佐々木秀義親子を長年自領にかくまっていた。重国所領、座間市の星谷寺の梵鐘には寄進者に佐々木氏の名が見え、渋谷重国と佐々木氏(源氏)との強いつながりがわかる。飯田以北、町田市境界までの境川周辺は渋谷重国の領地であり、左馬神社はこの領地の中に点在して存在している。ただし、その多くは江戸時代に創建された物が多いと思われる。

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ちなみに小田急江ノ島線の「高座渋谷駅」の地名は旧渋谷村からとったもの、渋谷重国の所領は現在の神奈川県大和市、藤沢市、綾瀬市にありここから現在の東京都、港区、渋谷区付近までを一族が所領していて渋谷の荘と呼ばれていた。つまり渋谷は東京の渋谷より高座渋谷の方が本家とも言える。
写真は飯田神社入り口付近の石塔群。

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飯田神社からは新道を離れて神社脇の道を上飯田団地方面に進もう。団地入り口付近に小さな神明社がある。団地造成時にここに移ったとのこと。団地の中を抜けて、山沿いの道を行く。

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浄土宗無量寺の裏で道は、広い長後街道に出る。長後街道を渡ると段丘上を南下する南仲通と呼ばれる道に出るのでこちらを進もう。

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神社や寺の配置から、現在の境川沿いの街道ではなく段丘上に古道はあったものと思われる。この道は古道の雰囲気を色濃く残している。

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南仲通に入るとすぐに三柱神社がある。かつて別々に祭られていた、山王、稲荷、天神の3つをまとめて三柱神社としたとのこと、うーんわかりやすい。大正元年創建だが、近隣の左馬神社と境内の配置はまったく同じ。

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境内にある保存状態の良い庚申塔、年号を見ると享保七年(1722年)の銘がある。庚申塔の石像についてついでに解説しておこう、塔の最上部左上に月、右上に太陽、真ん中の像は青面金剛像、足下左右に鶏、正面金剛は邪気を踏みつけ、その下に三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)がいる。庚申は道教の神。道教、仏教、神道が同居する民間信仰だった。青面金剛像の庚申塔は全国的に同じ形をしているので、見かけたら確認してみると良い。明治政府は迷信として街道脇の庚申塔を道路拡張とともに積極的に撤去破壊してしまった。

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ちょうど時期的にどんど焼き用にお飾りを集めいていた、新聞の広告写真、TVで良くみかけるおばさん、魔除けと一緒に焼かれる。

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境川の段丘の上のこの道、周辺の住宅も良い雰囲気を残している。

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広い畑が広がり、雑木林の中や街道脇には屋敷稲荷も所々にあって、港横浜と同じ横浜市とは思えない。

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牛舎、牧場もあります。

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南仲通の道は途中畑の中に消えてしまうので、やむなく新道に出る。なにか怪しい看板のお店?(有機農法のお店でした)

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しばらく行くと新道から少し入った所に左馬神社がある。途中日枝社もあるはずなのだが見つけられなかった。いずれも現在の街道には面していないのでこれらの社を結ぶ道がかつてはあったのだろう。

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段丘上、畑の中の道はやや下り再び境川の氾濫原にでる。歴史を感じさせる旧家が続く。

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道は相模鉄道、いずみ野線の高架をくぐる。

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鎌倉古道に面して冨士塚公園という小さな公園にでる。この公園には冨士塚城趾の石碑がある。飯田神社で出てきた飯田五郎家義の居城跡といわれている。この裏の冨士塚団地造成中に遺構、五輪塔、空濠が発見され、公園の東北側に広がる団地一帯が館跡だった。飯田五郎家義は平安末期〜鎌倉時代の武将で頼朝の信頼厚い御家人であったので鎌倉街道に面したこの要地に館を構えたのだろう。

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道を進むと、東泉寺、琴平神社に出る。東泉寺は鎌倉龍宝寺の末寺。琴平神社は寺の鎮守、水難守護治水の神を祭る。
現在、飯田と呼ばれる地域は平安末期、大庭御厨(茅ヶ崎〜藤沢市)当主大庭影親と渋谷重国との境で土地争いが絶えない地域だった。影親はしばしば氾濫する境川の流路を変えて自領地を拡大していた。上流に位置する重国は対抗手段として、川をせき止め下流の大庭領俣野の田畑を干上がらせてしまった。ここで大庭氏がおれて両者和解となった。飯田の地を預かることとなった重国の五男は、大庭影親の娘と政略結婚し、両者より一字をもらい飯田五郎重親とした。のちに、大庭の家に義を立てるという意味を込めて、家義と改名する。

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しかし、頼朝の挙兵で大庭氏と飯田、渋谷氏は再び敵対することとなる。大庭影親は恩義のある平家方として戦い、富士川の合戦で敗れ捕えられて処刑される。飯田、渋谷は石橋山の戦いでは大庭に義理立てし平家方として従軍するが、すぐに頼朝に臣従し各地を転戦、後に鎌倉幕府の御家人となる。東泉寺の隣には薬師堂がある。この薬師堂は飯田五郎家義が鎌倉永福寺の薬師如来を頼朝の許しを得て勧請した。家義は齢80歳でここで没したとされている。

さて次回は、この道を進み戸塚区の俣野神社に出る。その先本道を離れ藤沢市市街地を通り境川沿いに南下する脇街道を歩いてみよう。いよいよ寺社仏閣が多くなり、激戦の地、鎌倉まであと一歩である。

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