イスラエル旅行記(死海〜エルサレム)2018/08


イスラエルの旅その2は、死海周辺の遺跡とエルサレムです。
<パレスチナ自治区>
旅の後半はヨルダン川西岸のイスラエル占領地、パレスチナ自治区内の遺跡と東西エルサレムを巡る旅でした。地図で見ると広大なパレスチナ自治区ですが、この全域が完全自治区というわけではなく限られた街の極めて限定された地域だけに自治が認められていて、道路も水道もイスラエルの管理下にあり事実上のイスラエル占領地なのでした。

ガリラヤ湖畔のティベリアからヨルダン川に沿って南下してエリコに向かいました。(約136Km)


<テル・アッ・スルターン遺跡><エリコ>
エリコは海抜-250mのユダの荒野にあるオアシス都市で紀元前9000年頃から人が定住していた世界最古の定住都市とされる街です。テル・アッ・スルターン遺跡はこの街の中にあり大火(黒い層が見える)と地震によって崩れた二重の城壁(紀元前2000-3000年ごろ)と高さ7.5mの巨大な円形塔(紀元前7800年ごろ)が発見されました。旧約聖書にあるヨシュアのエリコ征服(角笛を吹くと城壁が崩れ落ちたとされる)の時期よりもかなり古い時代に城壁はすでに崩れていたようです。


<カセル・エル・イェフード>
エリコの東10Km、ヨルダン川の洗礼所、ヨハネが洗礼を授けていた場所とされています。ヨルダンとの国境にあり周囲は鉄条網で囲われた地雷地帯!!ごく最近まで入れない場所でした。鉄条網の中に残された廃墟の教会の壁には、中東戦争時の激しい銃弾の跡が残っていました。これらの教会は再建される予定があるそうですが、真新しい教会を作り何事もなかったかのように戦争の痕跡も消してしまいそうな気がします。

写真の濁った小川がヨルダン川です。ほんとに小さい小川でした。ガリラヤ湖の出口にイスラエルがダムを造り水量を調整している影響もあるようです。

ナツメヤシの農園が点在するユダの荒野をさらに南下してマサダに向かいます。(約70Km)


<マサダの要塞跡>遠方に見えるのは死海
死海の沿岸にそそり立つ山の上に作られた要塞遺跡です。紀元前142年に作られ紀元前25年にヘロデ王がこの要塞に宮殿や見張り塔などを作り難攻不落な要塞都市としました。


このマサダの要塞を有名にしているのは、紀元66〜73年にかけて勃発したユダヤ反乱軍とローマの戦いの舞台となったからです。紀元70年にエルサレムのユダヤ神殿も破壊された後、この難攻不落の要塞はローマ兵1万人に包囲されながら3年間にわたって持ちこたえたのでした。

この戦いの後、ユダヤ人は自らの国を持つことなく世界各地に2000年の流浪の旅に出ることになったわけです。(実際にはユダヤ教徒としてもしくはキリスト教化、イスラム化してこの地に残った人の方が多いのでしょうが・・・)

ここは、多くの観光客が訪れる有名な観光地なのでレストランや売店も充実していました。要塞の上まではロープウェイで登れますから楽ちんです。しかし夏のこの時期は気温は40度を超えるので遺跡巡り(ざっと巡っても3時間ぐらい)の時は暑さ対策が必須です。


<クムラン遺跡博物館、死海文書のレプリカ>
マサダからなぜか再度北上してクムラン遺跡に行きます。1947年にヴェドウインの少年によってクムランの洞窟から発見された巻物は、紀元前3-2世紀に筆写された旧約聖書(聖典)でした。それまで最も古いとされていた10世紀のヘブライ語の写本より1000年以上古いもので聖書研究上の大発見でした。


<死海文書が発見された洞窟>
ユダヤ教の密教集団クムラン教団は、この地がローマ軍によって侵攻される前に写本を守るため洞窟に隠したのだろうとされています。

クムランはさぞかし辺境の地なのだろうと思っていたのですが、確かに辺境の地ではありましたが大型バスでやってくる聖地巡礼の観光客でごった返し、CGで再現する付属博物館、体育館みたいな付属レストランと、遺跡としての雰囲気は残念ながら半減の観光地でした。

遺跡見学の後はクムランから死海に行き死海の浮遊体験をしました、浮きましたよ確かに。死海は年間20cmというハイペースで海岸線が後退しているのだそうです、そのため沿岸部の地下に空洞ができ陥没する「塩の穴」と呼ばれるものが多数出現して、農地や道路が被害を受けていました。この地方の乾燥化が進んでいること、水需要が増して死海に流れ込む川の流量が減っていることなどが原因ですがこのままいけばいつか死海は干上がってしまうのでしょう。

死海をあとにして一路この日の宿泊地エルサレムに向かいました。(約51Km)


<主の涙の教会>エルサレム オリーブ山

エルサレムは標高800m死海からの標高差は約1200mあり、地中海から来る湿潤な風はユダ山系にあたり雨をもたらします。そのため、ユダ山系の西側(エルサレムなど)は緑が濃く、東側(ユダの荒野、死海)は乾燥した荒野が広がっているのでした。

エルサレムという街が最初に記録されたのは紀元前24世紀エブラ文書にカナン人の街として記録されています。紀元前1000年頃ダビデ王によって都と定められ、ダビデ王の子ソロモンによってモリヤの丘に第一神殿が建立されました。

その後の歴史は、まさに民族と宗教の興亡の歴史ですね。

紀元前586年 バビロニア・ネブカドネザル王によって滅ぼされバビロン捕囚。
紀元前515年 バビロンからの帰還者により第二神殿を再建。
紀元前332年 アレキサンダー大王による征服。
紀元前164年〜前63年 ハスモン朝による独立国が栄える。
紀元前63年 ローマ・ポンペイウス、エルサレム占領。
紀元前37年 ヘロデがローマによってユダヤの王に任命される。
紀元30年頃 イエス十字架にかけられ処刑される。
紀元66年 ユダヤ人がローマ帝国に反乱を起こす。
紀元70年 ローマによって反乱は鎮圧され神殿は破壊される。ユダヤ人離散。
紀元132年 残留ユダヤ人による最後の反乱
紀元135年 ローマ皇帝ハドリアヌス反乱を鎮圧、エルサレムの街を作り変える
紀元326年 コンスタンティヌス大帝の母ヘレナが聖地巡礼、キリスト教の宗教的中心地となる。
紀元614年 ペルシャ軍による侵略
紀元638年 イスラム教・カリフ・オマル、エルサレム占領
紀元1009年〜1187年 十字軍がエルサレム占領、キリスト教会による支配
紀元1187年 サラディンによって陥落、再びイスラム教徒の支配下に入る。
紀元1249年〜1516年 エジプト・マムルーク王朝の支配となる、天災による荒廃。
紀元1516年〜1917年 オスマン・トルコが占領、400年間支配下に置かれる。
紀元1917年〜1948年 イギリス委託統治領
紀元1948年〜 イスラエル国

この日はエルサレムに宿泊、夜は霧雨となり乾燥地帯の死海方面との違いを感じられました。


<エルアクサモスク> 神殿の丘
翌日は霧も晴れて快晴、エルサレムの旧市街を巡りました。
エルサレムの旧市街は全長約4Kmの城壁で囲まれています。城壁には8つの門があり、エルサレムの象徴ともいえる神殿の丘にある岩のドームと嘆きの壁にはかつては街の汚物を捨てるために通った門「糞門」を通って入ります。

糞門を通って入ると、すぐに検問所があり厳しい手荷物の検査が行われてから嘆きの壁方面と岩のドーム方面の入場者に分けられます。岩のドームは壁の上にあるので、木製の臨時通路を通ってモロッコ門から入りますがその通路から嘆きの壁を見下ろすことができます。


<嘆きの壁> モロッコ門への臨時回廊から
神殿の丘の西側にあたるので西の壁と呼ばれ、2000年前に立っていたユダヤ神殿の至聖所に最も近い場所なのでユダヤ教徒にとってもっとも神聖な祈りの場所となっています。壁での祈りは男女は区切られ手前の狭い部分が女性用、奥の広い部分が男性用です。


<岩のドーム>
岩のドームはイスラム教徒の管理の下にあり、かつてはイスラム教徒以外も内部に入場できましたが現在はできません。外観を見学できるのみです。岩のドームのある神殿の丘には金曜、土曜、祝日は入場できず、平日も時間が限られていて、さらに最近は管理者や治安当局の判断で入場ができない場合があるとのこと、行ってみないと入場できるかどうかわからないとのことでした。この日は無事入場することができました。

モロッコ門から入るとエルアクサモスクがあり、神殿の丘の中心に岩のドームがあります。紀元691年、カリフ・アブド・エル・マルクによって建立された聖堂。八角形の建物に青色のペルシャタイルとコーランの文字で飾られています。(タイルはオスマン朝時代に改修されたもの)


イスラエルの象徴といわれているだけあって、本当に美しく、青い空に映える荘厳な建物です。イスラム建築のシンメトリックな 構造と青を基調とする建物は宇宙を感じさせるようで、いつまで見ていても飽きないものでした。


<岩のドーム アーチ>
岩のドームはモスクではありません、その名の通り聖なる岩、世界の中心を覆う聖堂でした。(訪れるまではモスクだと思ってました)イスラムの伝承ではムハンマドはここから天使を従え馬に乗って昇天したとされ、メッカ、メディナと並ぶ聖地です。ここにはかつてユダヤの第一神殿、第二神殿がありその至聖所もここにありましたからユダヤ教徒にとっても最大の聖地です。


<岩のドーム ミナレット>
岩のドームは典型的なイスラム様式の建物のように感じますが、ビザンティン形式の影響を強く受けていて先行する建築文化を巧みに取り入れた最初のイスラム様式の建物だとされています。同じ旧市街にあるキリスト教の聖墳墓教会との類似性も指摘(ドームの直径は同じなど)されていて、支配者が変わっても技術や文化は連綿と引き継がれていたことがわかります。


<神殿の丘の落書き>
どこの国にも不届き者はいるようです。日本語は見当たらなくて安堵しましたよ。岩のドーム、イスラムの三大聖地なのに空いています。嘆きの壁はたくさんのユダヤ教徒巡礼者と観光客がいるのに、対照的に岩のドームにはまったくムスリムの人がいません、観光客がチラホラいるのみ。2017年のテロ、最近のガザ状況などからイスラエル政府は金属探知機を検問所に導入するなど厳しい検問を実施しています。さらに事実上ムスリムの入国を困難にしているので巡礼者も来れないのだと思います。


<武装警官が見張る旧市街への出口>
この場所でのテロに対する警戒は厳しいものがありました。ガイド氏によると、これはイスラム過激派というより岩のドームを破壊して第3神殿を作ろうとしているユダヤ教過激派に対する警戒とのことでした。

<イスラエルの治安>
武装警官はこの地とパレスチナ自治区との検問所以外では見かけませんでした。ヨーロッパの観光地の方がはるかに武装警官は多く、米国の都会の方がずっと治安は悪いと思いました。ホームレスの人も見かけず、旅行者や巡礼者には安心でしょう。

しかし、手荷物をどこかに置いてその場を離れると、すぐさまその手荷物は消えます。常にどこかから監視されていて、異常があればすぐに私服警察が駆けつける。パレスチナ自治区とは壁を作りその外にイスラム教徒を追い出す、徹底した入国、出国管理で問題を起こしそうな人物やムスリムは事実上入国困難にする。etc…  イスラエル政府の努力?で不気味な治安の良さなのでした。


<商店の並ぶ通路>
神殿の丘を出て旧市街の商店が並ぶ通路を通って、イエスの刑場への道、ゴルゴダの丘までの道(ヴィア・ドロロサ)の出発点に向かいます。


<旧市街の小路>
旧市街は細い小路が網の目のように走っています。左右には様々なお店が軒を並べゆっくり見て回ってみたいのですが、ガイドさんは目的地へと急いで向かいます。


<十字架を運ぶ観光写真屋さん>
イエスの刑場への道ヴィア・ドロロサは、たくさんの聖地巡礼の人たちと観光客で賑やかでした。こんな風に十字架を背負って運んでくれるサービスもありました。ガイド氏曰く彼は写真屋さんだそうですが。

しかし当時イエスが背負ったのは十字架ではなく、1本の板だったようです。刑場には十字架を構成する立板がすでに設置されており、受刑者は横板を担いで運んだのだそうです。(ガイド氏の解説より)


<エッケ・ホモ教会、地下に残る石畳>
ヴィア・ドロロサは、後世(16世紀)に伝承から定められた14のステーションがあります。イエスの時代の道は現在の地表から3mほど下の地下にあります。ローマ総督ピラトの官邸があったこの場所では、馬が滑らないように溝を刻んだ当時の道の一部を見ることができます。


<元祖ベーグル>
ヴィア・ドロロサは各ステーションごとに伝承と小聖堂などがあるのですが、すでに二十以上の聖地と教会めぐりに少々食傷気味の私には、道すがらの小路に連なるアラブ人のお店の商品や垣間見える人々の生活の方が魅力的に感じます。上写真右が元祖ベーグル、丸くないんですね。


<革製品のお店>
お土産、日用品、お肉屋さん、パン屋さん、なんでもありで、地域住民のためのお店も兼ねていることがわかります。革製品のお店が目立ちました。


<聖墳墓教会>
ヴィア・ドロロサの終着点は、ゴルゴダの丘にある聖墳墓教会です。熱心なキリスト教徒だったコンスタンティヌス大帝の母ヘレナが聖地巡礼、イエスの十字架をここで発見するなどして336年にこの地に聖墳墓教会が建てられました。ゴルゴダの丘はイエスの死後整地されてしまっていたことが考古学的にはわかっています。ガイド氏曰く、考古学と宗教は仲が悪い。


<ダビデの塔>
伝説ではダビデ王によってつくられたと言われる塔、ここは現在エルサレムの歴史博物館となっているのですが、このツアーでは立ち寄りません。エルサレム市内では岩のドーム以外はひたすら聖地巡礼のみ!博物館も美術館もよらず市内で自由にお買い物なんて当然しません。(少々不満)


<シオン門>
アルメニア人街の先にシオン門があります。この門には中東戦争時の無数の銃弾の跡がありました。

この後、ダビデ王の墓、鶏鳴教会、眠れるマリアの教会、最後の晩餐の部屋、ベツレヘムに移動して聖誕教会と回りましたが、疲れたので省略します。

今回納得できたのは、ベツレヘムは旧約聖書ではダビデ王の血を引く救世主がこの地に到来する、となっているので、新約聖書の作者はマリアがベツレヘムにわざわざ行きイエスを産んだことにした、そしてイエスの義父ヨセフを(イエスと血縁がないにもかかわらず)ダビデ王の子孫としたこと。イエスの聖誕の物語は矛盾点が多く、作者が旧約聖書の権威を取り入れたいがために、少々話を盛りすぎてしまったようです。


<ダビデ王の墓>
ユダヤ教正統の黒い帽子、コートの人たち。厳しい戒律を守る彼らは、無税、補助金受給、兵役免除などの優遇があります。 ユダヤ人の人口の10%を占めていて高い税金を払っている一般人からの不満が高くなり政府も対応をせざるを得ない状況となっています。


<パレスチナ自治区を遮る壁>
左がイスラエル占領地、右がパレスチナ自治区です。この壁の向こうにパレスチナ人を追い出すことで一定の治安を得ているようです。この地の4000年の歴史で強圧的な支配が長く続いたことはありません。奪い取ったものはいつかまた奪い返されることをこの地の歴史は証明しています。イスラエルがこの地を治めてわずかに50年です、長い歴史に比べれば一瞬でしかありません、お互いに折り合い共存する方法を考えない限りやがていつかは奪い返されることになるだろうと私は確信しています。


<新市街の小路>
まったく新市街地には行けず、唯一レストランで夕食をするために通過したのみです。

<イスラエル、ツアーについて>
イスラエルの最大の外貨獲得産業は観光業で、そのほとんどがキリスト教徒の聖地巡礼の旅です。そのためキリスト教徒の少ない日本人観光客は国別では第8位だそうで、お隣の韓国よりも少ないそうです。

せっかく聖地以外の観光資源もたくさんあるのだから、それらを巡るツアーも組めばキリスト教徒の少ない日本人も訪れ、(聖地巡礼は疲れてくると苦痛になります)リピーターも増えそうな気がします。

致し方ない面もありますが、あきらかにエルサレムでは自由行動をさせない、お買い物も指定された場所以外ではできないようにしていてこれは少々窮屈でした。でも帰りの入国よりさらに厳しい出国検査で、自由な時間はあったか?と問われ、これにイエスだと別室で数時間の尋問検査となることも後から知りました。

帰りも、厳しい出国審査に備えるために、ツアー会社は観光を早く消化して空港に向かいました(ツアー会社はそういう説明はしませんが)、もし参加者の一人でも別室尋問になれば3時間ぐらいは平気で待たされるからでしょう。これでは、個人旅行で訪れるのは難しいなと感じましたし、イスラエルの印象もあまりよくはならないでしょう。


イスラエルの人は花が好きなようで、どこでも季節の花がたくさん咲いている場所がありました。長くこの花が鑑賞できるように、知恵を働かせ他者との共存の道も考えて欲しいものです。

関連ページ
イスラエル旅行記(テルアビブ〜ティベリア〜ナザレ)2018/08

 

 

 

広告
カテゴリー: タグ: , , パーマリンク

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中