山王廃寺と総社古墳群(群馬県前橋市)

Facebookで掲載していた国内の遺跡、古墳巡りもこちらに掲載することにしました。

*廃寺跡へ 上越線群馬総社の駅で降りて、こんな風景の中を廃寺跡に向かいます。キケン君は関西出身ですが群馬の田舎にも進出してきてますな。

*街に残る用水路 用水は江戸時代初めに掘削されたものが現在も街の中に残っています。この町並みはなんとなく奈良の田舎に似てるなあと、感じましたよ。

*山王廃寺跡 今は小さな日枝神社ですが、ここで大正時代に塔心礎が発見され、最近の調査で様々な仏教遺跡が発見されました。

*山王廃寺跡伽藍配置図 7世紀中から後半に建立されたと思われる大規模な伽藍で塔や金堂の配置は奈良斑鳩の法起寺と同じ配置です。

*塔心礎 などこれらの石造技術はヤマト王権由来のものと思われ、寺の位置などからこの地の豪族上毛野氏の氏寺であろうと推定されています。

*根巻石と鴟尾 昭和56年の調査では放光寺と書かれた瓦が出土し、この寺が日本最古の墓誌「山の上碑」の放光寺であることがわかりました。

*鴟尾、塔心礎、根巻石の解説板 あー、確かに奈良唐招提寺で見たものと同じです。石製鴟尾は日本で2例しかないとのこと

*阿修羅像 後年火災にあったらしく近くの埋納抗から、焼けた塑像片3000点が見つかりました。神将像、阿修羅像など製作水準の極めて高いもので、現存していればどんなにか素晴らしかっただろうと思うと、残念です。(総社歴史資料館にて)

*出土した軒丸瓦 1030年頃には荒廃して寺院の体をなさず放光寺を定額寺から外してほしい旨の記録が残っており、その後浅間山の噴火、平安末期動乱による火災などで完全に廃棄され忘れ去られてしまったようです。(総社歴史資料館にて)

*上毛野氏近影か?? 廃寺近くにありました。上野国国府、国分寺、国分尼寺もこの地にありヤマト王権の東国経営の最前線であったと思われるこの地の豪族上毛野氏は平安末期以降この地の歴史からは消えてしまいます。

*蛇穴古墳 7世紀後半山王廃寺と同じ頃作られた一辺44mの方墳です。上毛野氏一族の墓と考えられています。上毛野氏は地方出身豪族として中央でも活躍し、7世紀末の吉備総領に一族と思われる「上毛野朝臣小足 」の名があります。総領は軍事権を掌握した地方官、古代からヤマトとの関連性が指摘される吉備と上毛野に同じ一族の名が見えるのは偶然ではないでしょう。

*宝塔山古墳 7世紀中頃、墳丘長66mの大型方墳。加工された切石を組み上げ、漆喰を塗ってある石室、家形石棺、石棺脚部には格狭間が堀込まれるなどほとんど畿内王族と同様の仕様で作られています。

*古墳の復元図 ピラミッドみたいな形です。この墓の主も上毛野氏と推測されていますが、この地生まれの豪族だったのか中央から派遣された王族が土着したのかはわかっていません。

*総社二子山古墳 6世紀後半、墳丘長90mの大型前方後円墳。上毛野氏は第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とすると伝承されていて、赤城神社は豊城入彦命を祀る神社、伝承の真偽はともかくヤマト政権と深い関わりがあったことは確実です。

*二子山古墳から出土した大刀 現物は所在不明で出土時の詳細絵図から復元したもの。美しい!しかも迫力満点。

*古墳巡礼を完了、地元のそば屋大村で、ビール片手に名物ソースカツ丼(うまい!)を食べながら、ヤマト王権は吉備、畿内、毛野の連合王国だった論は荒唐無稽でもないなあ、と思ったのでした。

 

 

 

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